美意識を持たずに生きている人のことを冷ややかな目で見ていたけれど、わたしにもそういう側面があったことに気づいた。
わたしは所謂体育会系のノリが苦手。運動が苦手というのが主な理由だけど、あの暑苦しさが気持ち悪い。小学校の体育の時間なんかは地獄だった。団体競技ともなればわたしはいつも足を引っ張ってしまって、授業後にチームメイトに文句を言われていた。実際わたしが上手く動けていないのだからそれを否定する術もない。あれ、本当は先生側が上手くはからわないといけないんじゃないだろうか。
運動会とか体育祭で盛り上がる気持ちも分からなかった。たかだか暑いだけの体育の授業に、何本気になっちゃってんの。別に負けたって死なないし。賞金だって無いし。こと体育会系のイベントにおいてはわたしは栄誉を全く欲していなかった。
年齢が上がって適当に流そうというムーブがメインになってからは過ごしやすくなった。失敗してもみんな笑って許してくれる。できないからって否定されない。上手い子は部活でもっとやり込んでるから、体育の授業で高みを目指す必要なんて無かったんだろう。
これらのわたしの感じはきっと、何のポリシーも無く生きていける人達と同じ感じなんだろうなと今日ふと思った。そう思うとあまりそういった人たちを責める気にもなれない。彼らは彼らで上手く本気になれない自分に寂しさを感じているのかもしれない。
話は変わって、最近チョコザップのCMをよく見る。確実に「手軽なジム」とはまた違うものを目指しているなと感じられて面白い。というか何かキャッチコピーあったよね。
チョコザップを国が提供してくれるのが共産主義なんじゃないかと割と本気で考える。チョコザップは一企業がやってる有料のサービスだけど、公民館みたいなノリで誰でも使える娯楽施設として扱われたなら共産主義のそれなのではないだろうか。
これまで「民主主義」「共産主義」「右翼」「左翼」といった付近の思考はなんだか危険なような気がして、エネルギーのある怖いもののような気がして避けてきた。実際、前に友人と五反田に出かけて駅前で街宣車に遭遇した時は彼らが扱う言葉が怖くて調子が悪くなってしまった。
だけど、野ばら様の書かれた『純潔』を読んでからは少しだけ抵抗が薄まって、よりよい社会とは、わたしが求める世界とは、みたいなことを考えるようになった。
野ばら様は本当にすごい。『シシリエンヌ』ではわたしの性に関するいざこざも救ってくださったし、どうしてこんなに何度もわたしを包んでくださるのだろうと思う。それにきっと、こんな風に何度も救われたのはわたしだけではないと思うのです。野ばら様のファンは数こそささやかなものであれ、一人一人の熱量がとても高いイメージ。握手会も、泣くか泣かないかの指標がある。そんなイメージ。どうしてそんな文章が書けるんだろう。救世主型だなぁ。わたしもいつか、そうなれたら。