あなたは男の人にしては背が低いから、身長158センチメートルのわたくしが7センチメートルの厚底を備えるVivienne Westwoodのロッキンホース・バレリーナを履くと乙女が男の人を見おろす形になってしまいます。その状態で抱きついたものだから、わたくしがあなたにおおい被さる形。こんなの、わたくしの夢見たロマンスからは遥か遠いのに。けれどもこれは紛れもなく、わたくしがはじめて
わたくしは後悔していました。調子にのって夜更かしなんてするんじゃなかったと。午前0時頃、過量摂取したメタトロンが回りだして脳みそが軽くなったあたりまではちょうど良かったのです。それで満足して眠るべきだった。調子にのったわたくしは、そこからさらにお薬を追加致しました。
メタトロンはドラッグストアで市販されているせき止め薬です。わたくしはかれこれ1年ほど、このお薬の過量摂取――ODをしております。ですがご安心を。今わたくしがしているのは、一般的にODと聞いて浮かべるようなバイオレンスな行為ではございません。せいぜいお酒を数杯楽しんだ時と同じくらいなのではないでしょうか。まあ、わたくしはまだお酒を飲んだことがないのですが。飲みはじめた当初こそ、体が拒絶して嘔吐してしまったり、現実から逃れたくて途方もない数のメタトロンを飲んて記憶を失ったりといったバイオレンスな夜も重ねましたが、今となっては反省。一晩に入れるのは10錠にも満たない数で、耐性がついたのか吐くことはありません。得られる効果は少しの思考停止。脳みそが上手く働かなくなって、ふわふわとした心地に包まれます。たまに訪れる効きが良い日なんかは平衡感覚が鈍ります。1Kの狭いおうちのなかで、ベッドからお手洗いに行くまでの道のりが遠くてたまらない。壁に手をつきながら歩きます。これ自体は不便なだけで楽しくもなんともないのですが、薬がよく回っていると自覚できるのは幸せなことです。メタトロンに支配されている間は、わたくしは護られていますから。
今夜もメタトロンに護ってもらうことを期待してODをしていたのです。ですが、午前4時現在、わたくしはひどく後悔しております。涙が、止まらない。
言い忘れていましたね。メタトロンは脳みそをベールで覆ってくれるのと裏腹に、感情を増幅させる力も備えているのです。これは最近になって現れた効果。ODを長期的に行なった結果とでも言いましょうか。医学的な根拠はわかりませんが、わたくしの場合はそうなのです。幸福を500パーセントで感じられる代わりに、少しでも感情の針が絶望の方へと振れてしまえば最後、通常の何倍もの絶望感に襲われます。ああ、なんと恐ろしい。今夜のわたくしはまさに、メタトロンに牙を剥かれているわけです。
きっかけは忘れてしまいました。気づけば涙が止まらなくて、だけど何故か、睡眠薬を入れたいと思えない。いつものOD中の涙と今流している涙とでは質が違うのだとどこか冷静な頭の奥で考えていました。気が触れかけている。冷静さが残っている今のうちになんとかしないと、わたくしは首を吊ってしまう。
わたくしがするのはODだけで、リストカットはどうにも怖くてやれないのに、カッターに手を伸ばしてしまいます。恐る恐る刃を左手首に滑らせる。血が出るほど押し当てるのは怖くて、白いままの肌に一本線が通る。脳裏が真っ白に焼きついて、ほんの一瞬涙が止まる。2本目をどの位置にするか考える頭のもう一方で狂いはじめている自分を自覚しました。
2本の傷を作ったらどっと疲れて、カッターを放り投げる。カーテンの上下から青い光が射しこんでいます。真夏の日の出は恐ろしく早い。日光が救いに見えて、だけどカーテンを開けることはできなくて、ベッドの上で座り込んだまま途方に暮れるわたくしのなんと惨めなことか。
こんなところで終わってたまるものですか。わたくしはDMを開きました。あなた宛にSOSを送ります。気が触れているから縄を預かってください。
わたくしはSMプレイに興味を持っていて、戯れに縄を買ったことがあるんです。純然たるマゾヒストのわたくしが縛り手に回ることはないのですけどね。通販で買った、初心者向けのやわらかくて赤い縄。はじめのうちこそ自分で縛りの練習をしたこともありましたが、思ったよりも難しくてすぐにベッド下に放置。そのまましばらくは使っていなかったのですが、わたくしはこの縄で1度首を吊りかけています。
あれはとても静かな自殺未遂でした。夜にふと、気持ちが塞いで、自分がどこまでやれるのか試したくなったんです。お風呂場のポールに縄をかけて、なんとなくで輪っかを作ってみて。首を入れるところまでいったのですが、輪っかが小さくて断念しました。ひと息ついたら輪っかを作りなおそう、そう思いながらベッドに横たわるうちに瞼が落ちていて、目が覚めると自殺念慮は過ぎ去っていました。
こんないわく付きの縄は一刻も早く捨てるべきです。分かっています。だけどなんだか捨てられなくて、物が物だけに実家に預けるわけにもいかなくて、せめてもの抵抗として、わたくしはこの縄をBABY,THE STARS SHINE BRIGHTのショッパーに入れていました。大好きなメゾンであるBABYのショッパーに入れたなら、もしもの時に思いとどまれるかもしれないと思ったのです。そうだ、せめて大好きなBABYのお洋服に守ってもらおう。そう思ってパジャマ代わりにロリィタなワンピースに着替えました。
あなたにSOSを送れたからか、はたまたBABYの魔法か、わたくしは安心してようやく睡眠薬を入れる決心がつきました。ドラッグストアではなくかかりつけの薬局で手に入れた白い錠剤を飲み込むと30分ほどで眠気がわたしを支配しました。
浅い眠りから浮かび上がると、もう日が傾きかけていました。眠ることで脳みそが正常に戻ることも期待していたのですが、まだおかしいまま。あとひと押しでわたくしは完全に狂い、死に直行してしまうなと体感できます。
ベッドの脇に落ちていたスマートフォンを拾いあげ、液晶をタップして、わたくしは安堵しました。どうやらあなたに会えそうです。短い時間になるけれど、と付け足されているあたり、忙しい中時間を作ってくれたのでしょう。
そうと決まればお化粧をしなければなりません。きっと今のわたくしは真っ黒い熊を目元に住まわせていますから。あなたに会えるまでの時間、できるだけゆっくりとお化粧をしてこれ以上気が触れないようにして、そのままあなたに会ったなら今日はクリアです。
生気のない肌にしたくて下地はグリーン。新大久保で叩き売りされていた謎のメーカーのもの。意外と肌に合っている。ANNA SUIのファンデーションを薄く重ねて、Witch's Pouchのコンシーラーで肌の粗を消します。同じくANNA SUIのパウダーを叩いたならベースメイクは完成。明るい髪色に合わせて眉マスカラを付ける。ノーズシャドウで鼻を作って、KATEの黒いアイライナーで目を強調。今日は深く考えられないのでブラウンメイクにする。FlowerKnowsのアイシャドウパレットのお出ましです。筆を使い分け、丁寧にグラデーションを作っていく。長年の研究によって編み出した、自分にいちばん合う塗り方。時折他のやり方も試してバージョンアップしているものの、今日みたいな何も考えられない日は慣れた手つきに従うのみです。黒のマスカラでぱっちり睫毛を作ったらお待ちかね、チークの時間。わたくしのメイクはチークをこれでもかと塗り重ねることで完成致します。今日手に取ったのは赤いチーク。Jyoceeから発売されているこれは、パッケージがりんごを模していてとてもかわいいのです。わたくしはロリィタちゃんだけど、いちごよりもりんごのモチーフが大好き。このチークはわたくしのためのチークだと思っております。
KATEのリップは出かける前に塗ることにして、ひと息。携帯を開くとあなたから、どこで会おうかと訊ねるメッセージが届いていました。どう考えても今日は街へ出られそうにありません。わたくしは逡巡ののち、以前から気になっていた近所の居酒屋さんのリンクを送りました。
すっかり日も暮れた頃、わたくしはマンションを出てとぼとぼと歩き始めていました。いつもならピンクや赤といった明るい色のお洋服を纏うのに、今日は黒いワンピース。以前しまむらで購入した、どこのパクリでもおかしくないデザインのものです。布だってペラペラ。だけど今夜はこんなものしか身につけられませんでした。わたくしが普段着る、BABY,THE STARS SHINE BRIGHTのお洋服やNILE PERCHのお洋服は着るのにエネルギーを要するのです。Swankissならまだ優しいのですが、それすらも今日は着られません。弱りきったわたくしは、けれどもあなたに会えるからと髪はツインテールに結び、足は黒のロッキンホース・バレリーナを装備しております。気を抜いているとは言っても普通の人が今のわたくしを見れば、それなりに外出向けの格好をしていると捉えるでしょう。
ロッキンホースの厚底で1歩1歩を踏みしめる間、音楽を聴く気にもなれなくて、わたくしはぼんやりと頭を動かしていました。
わたくしは生きることに疲れたのです。今日まで懸命に生きてきました。先生の言うことを聞いて、親の無言の期待に応えて、優等生の自分を作り上げてきました。ハーバード大学に入るようなスーパーエリートではないものの、運動以外は何をやらせても85点を叩き出せます。けれど、そうやって自分の中の優等生を磨くほどに本当のわたくしの居場所はなくなっていく。ODをしてベッドで泣くわたくしを必要としてくれる人なんて、この世に存在しないのです。今から会うあなただって、わたくしがそれなりにかわいい身なりをしていて性交渉の際の感度が高いから傍に置いてくれているだけ。みんなわたくしが作り上げた外面にしか興味がないのです。それにわたくしだって、本当のわたくしを他人に見せるのが怖くてたまらない。それが醜くて魅力に欠けたものであることは、わたくしがいちばん知っているから。本当のわたくしは、永遠に助けを求めて泣いていて、誰にも何も与えることのできない、自分勝手な子どもなのです。
暗い気持ちを背負っていたら、本来5分でたどり着くはずの道のりに10分もかけてしまいました。あなたはあと5分ほどで着くそうです。お店の近くにあった自動販売機にもたれかかり、死んだような目をして立っているわたくしは傍から見れば亡霊によく似ていたでしょう。
「こんなところに。先に店、入ってると思ってた」
こくりと頷いて、あなたの後を追ってお店に入ります。わたくしが選んだのは赤提灯が入口にぶら下げられた小さな居酒屋でした。1人なら怖くて絶対に入らないお店ですが、あなたはこういうお店で賑やかにお酒を飲むのがどうやら好きみたい。散歩中に見つけて以来、いつかあなたを誘って来ようと画策していました。もっと明るい気持ちで来る予定だったのに。
店内はわたくしたち2人だけ。まだ若い店員さんが1人で切り盛りしていて、「いらっしゃいませ」とメニューを差しだしてくれます。
「ビールで」
「烏龍茶で。」
「あと刺身ください」
よく知らないJ-POPがBGMに使われているようです。あなたは気に入ってくれたでしょうか。そもそも、今わたくしはどんな顔をしているのでしょうか。死にかけの目を自分がしているのが分かって、少しでも圧を減らそうと無理やり口角を上げました。
「あ、そうだ、縄、預かってもらえますか」
「いいよ。そもそもこれって何の縄なの?」
「前に自分で緊縛の練習してみようと思って買ったんですよね。初心者用のやつ。捨てるのはもったいないけど持ってたら使っちゃいそうだなと思って」
「てことは
よくお分かりで、と言った途端に笑みがこぼれる。この人はわたくしをよく理解してくれている。今日会えてよかった。少しずつ張り詰めていた糸が解けてゆく。
飲み物が届いて、2人で乾杯する。あなたは所謂裏垢をやっているから、乾杯の時は必ず写真を撮る。あまり頻繁にアップされているわけではないけれど。わたくしがあなたと出会ったのも裏垢を通してだった。
昨年冬頃、わたくしはご主人様が欲しくてたまらなかった。伝わりやすい言い方をするならば、恋人と言ってもいい。恋人に親をプラスしたような、わたくしを愛してくれる、そしてわたくしも全力で愛することが許される相手を早く見つけないとわたくしは孤独に押しつぶされて死んでしまうのだと確信していました。そんな時にわたくしにDMを送ってきたのがあなた。あなたはわたくしの投稿を見てわたくしの考え方や、わたくし自身に興味を持ったと言ってくれました。はじめこそいかにも遊び慣れていそうなあなたの雰囲気にわたくしは疑念を抱きましたが、他人との距離感が分かっているひとと話せるとストレスを味わわなくて済むことも知っていました。あなたはきっと、遊んでいるだけあって距離感を見極めるのが上手なひと。さらに言えば、DMで会話する中でもその片鱗は見えていました。そうして自分の感覚を信じて会ってから約4ヶ月が経過しています。
「今日は調子悪くなっちゃったんだ」
「んー……へへ」
「少しは眠れた?」
「眠剤入れたので。でもね、ここに来る時マップだと5分で着ける予想だったのに10分かかっちゃったんです」
「それでも来られてよかったじゃん。たかだか5分でしょ」
お刺身が届きました。あなたが煙草を吸うのを横目に、わたくしはお箸を取り出します。おいしいお刺身。おいしい生命。
「お刺身おいしいですよ」
「じゃあ俺も。ほんとだ!他もなにか食べる?」
「じゃあだし巻き玉子と……この、梅水晶ってなに?」
「食べてみな」
出てきた梅水晶は不思議な食べ物でした。まぐろと梅と、細かく切ったサメの軟骨を和えることで名前にふさわしい出来になっています。コリコリとした食感と梅の刺激は脳みそから暗い気持ちを吹き飛ばしてくれました。
「面白いですね、梅水晶って」
「おいしいよね、居酒屋だとよくあるよ」
一緒に居酒屋さんに行った時、おつまみに手をつけるのは主にわたしです。あなたはお酒を飲む時は食事のスイッチが入らないらしく、煙草をふかしながらひたすらにビールを飲み続けます。普段から好きなあなたの煙草のにおいが今日はとびきり嬉しくて、安心できて、わたしは副流煙を吸い込むことに集中しました。ほのかにバニラの混じったにおい。大人のにおい。あなたのにおい。安心する匂い。
「リスカしようとしたところどこ?」
「この辺。でもわからないと思います」
居酒屋を出て、わたしは家まで送ってもらっていました。家の手前の路地でなんとはなしにお互い立ち止まって、世間話をして。SNSに書き込んでいたリストカットについてあなたが触れたのは不意の出来事でした。
ろくに見えないリスカ痕を見せようと、わたくしが差し出した左手首があなたに掴まれていたのは束の間、気がつくと歯を立てられていました。いつも性交渉中に植え付けられる痛み。慣れた痛み。わたくしは体を震わせてしまう。この痛みで達するように仕込まれている、から。
あ。
決壊、する。
反射的にわたくしはあなたに抱きついていました。直後、涙が止まらなくなる。嗚呼、これはいけない。早く離れなくちゃ。だけど離れたくない。今離れたなら次は絶対ない。今だけ。少しだけ。この人の中で泣きたい。
「泣けてえらいね」
なんでそんな優しいこと言うの。
「きみは頑張ってるよ。俺は知ってる。それでいいでしょ?」
頷く。
「俺みたいな人が増えるといいね」
わたくしは泣きました。あなたのスーツが汚れてしまうのを気にしながら。ロッキンホースで身長を盛った今のわたくしは、男の人にしては背の低いあなたにおおい被さる形で泣き続けます。わたくしの悲鳴を聞いて駆けつけてくれただけで幸せなのに、わたくしの暗い部分にまで触れてくれるの。あなたはわたくしの親でもカウンセラーさんでもないのに、どうしてこんなに優しくしてもらえるの。わたくしにそんな価値はきっとないのに。
「かわいいね」
「顔ぐちゃぐちゃですよ」
「ブスだけど、かわいいよ」
それはあまりに優しい夜の出来事。ロッキンホースでよろけたことにして、わたくしがあなたの胸で泣いた夜のこと。