令和乙女日記

拗らせメンヘラの端書き

反出生主義とか

22の夜から友人が家に遊びに来ている。22の東京はものすごい豪雨で、濡れた荷物にひいひい言いながら2人で順番にお風呂に入って寝た。そして今日、23は遊ぶ予定を組んでいたので1日遊び倒した。そして今が23の夜。友人はもう1時間以上前に眠ってしまった。わたしだけが眠れずにずっとスマホを触っている。
昨日はわたしの方が早かった。いつもの寝付きの悪さが嘘かのように、会話が途切れたほんの少しの時間で眠りについた。しかし今日は一転して全然眠れない。おかしいな、今朝はわたしの方が早く起きたし、起きている時間としてはわたしの方が長いはずなんだけど。
このたった1日ほど、しかもそこそこ気の知れた友人と行動を共にしただけでもうありとあらゆる自傷方法が頭に浮かんでくる。まだまだ社会復帰には程遠いんだなと自覚させられた。この頃はもうかなり健康的な思考にシフトできてきている気がしていたけれど、それは単に生活に余裕が出たからだったようだ。どうやらストレスが溜まると結局元通りの、不健康なこんがらがった思考に戻ってしまうらしい。

話は変わって、最近は反出生主義に興味がある。先ほども森岡正博の「生まれてこない方が良かったのか?」を読んでいた。自殺未遂をして以来、わたしは反出生主義に目覚めたような気がする。これまではインターネットでそういった主義の人を見てもよく分かっていなかったのだが、今は少し分かる。そもそも、この世の中はあまりにも生を賛美しすぎている。死から目を背けた上で語る生の価値なんてほとんど無いはずなのに、大抵の人間はそれを語ろうとはしない。
有よりも無の方がえらいのだ。無とは素晴らしいもの。無を想像するだけで、わたしは穏やかな気持ちになる。ほら、よく「無になる」なんて言うじゃない。あれって良い事として扱われているでしょう。そういう感じ。
反出生主義についての細かい知識はまだ無いけれど、大枠の感覚としては近いものを持っている気がする。わたしは生まれてこない方が良かったし、人間も、この世界も、全部生まれてこない方がよかった。
わたしに将来があるとして、子どもを産むかどうかはとても悩ましい点だ。個人的には産みたい。そうして人生を完成させたいみたいな気持ち悪い考えはある。でも、主義に従うならば産むべきではない。きっとその方が高潔な考え方だと思う。
主義を持つことはなんて難しいのだろう。