令和乙女日記

拗らせメンヘラの端書き

役者になりたかった頃の話

役者になりたかった時期があった。淡い思春期の夢だった。今思えば劇団に所属するわけでもなく、オーディションを受けるわけでもなく、ただ漫然と演劇部に所属して、カルチャーセンターで殺陣を習っていただけのわたしは役者を目指しているだなんて到底言える分際ではなかったけれど、当時は本気だった。上京を決意したのだって最初はこの夢が理由だったのだ。

ある意味わたしは、芝居を愛してしまったから心を病む羽目になったのかもしれない。いや、これは悲観しすぎかな。だけれど芝居への愛があったからこそほとんど侮辱に近い部長からの駄目出しを真摯に受け取ってしまったし、役を放り出してあの場から速やかに逃げ出すこともできなかったのだと思う。

 

久々に演劇のことが頭に浮かんだので、こうして書いてみることにした。わたしの中高時代はほとんど演劇に費やされたといっても過言ではないので、書けることなんて山ほどある。だのにブログを書くようになって数か月経ってようやく書き始められたのはきっと、演劇への思いはわたしのなかで大切なものになっているからなのだと思う。夢をあきらめた、一応の挫折の意識だってついて回るし、数年の間真摯に向き合っていた演劇について語ることは、ひとつの恋愛を語るのと同じくらい勇気がいる、気がする。

あの頃のわたしは芝居に依存していた。幕が降りきった後のあの極上の達成感の虜になっていた。そのころからうっすらと希死念慮を抱えていたわたしは、演じられないのなら生きていけないから役者として生きていこう、薄給だそうだけどまあ、どうしようもなくなれば死ねばいいのだし。と、かなり後ろ向きな情念を宿しながら夢を見ていた。

演じるということは、どうしてあんなにも阿片のような甘美な魅力に包まれているのだろうか。わたしが思想に特段興味を示す、哲学者タイプだからだろうか。赤の他人である役を演じるということは、役を完璧に理解するということ。そして自分の中にある役の材料を見つけ出してどんどん役に成って行く。思想をトレースして、自分ではない人間の人生を束の間生きる。役として声を発し役として心を動かす。この過程で味わう興奮のような、快楽のようなものは他では味わえないんじゃないかと思う。

そもそも演劇に興味を持ったのは、おそらくだが安心感を求めてだと思う。セリフが決まっている安心感。未熟で、今よりもっと人と話すのが恐ろしかったわたしにとってこれは魅力的に映った。だけどいざ飛び込んでみれば、役作りの方に夢中になっていった。まるで乙女が意中の相手の趣味を知ることで自らの世界を広げていくかのように、あの頃のわたしは役を通じて世界を広げていたように思う。

 

まだまだ書きたいことはあるけれど、散文になってしまいそうなので今日はこの辺で。