令和乙女日記

拗らせメンヘラの端書き

守る側か守られる側か

朝マックを買いに出かけたら、ランドセルを背負った小学生がたくさん歩いていた。どうやら集団登校をしているらしくて、信号機のない横断歩道のところに見守りのおじさんが立っていた。わたしもその人に車を停めてもらって信号を渡った。

歩きながら、わたしは守る側なのか守られる側なのか、どちらなんだろうなと考えた。19歳。成人してはいるけど、まだお酒も煙草も手が出せない。自分で稼ぐことができないから親からの仕送りで生活している。だけど、一人暮らしをしている。自分で生活を成り立たせている。ならば守る側なのか?

この場合の「守る」「守られる」というのはおそらくかなり抽象的なこと。わたしが小学生と並んで歩いたならわたしは間違いなく「守る側」に立つことになるし、こんな思考はそこで終わるのだ。だけど、見守りのおじさんからすればわたしもまた「守るべき存在」なのかもしれなかった。

社会を大きく分けたとして、今わたしはどっちにいるんだろうか。こんなことを考えたってどうにもならないけれど。考えずにはいられない性分。病人だから、守られる側?若くて力があるから、守る側?女だから、守られる側?お洋服が派手だから、守る側?

守られたいなと思う。守られて安心したままそっと生きていたい。だけどそんなことに何の意味があるんだろう。誰のことも守れない人生に何の意味があるのだろう。絶望の仕草。

話は変わって、この頃「ノルウェイの森」を読んでいる。村上春樹の。数年前に時間をかけて上だけ読んで挫折したきり読めていなかったけれど、漸く上を読み終えて下をこれから読むぞというところまで来た。話の全貌は掴めないけれど読んでいるだけで何となく安心する。文学的なものの見方に浸っている時わたしは安らげるんだなと感じた。たとえば心理学なんかの理系的なものの見方は知れば知るほど哀しみが増してしまう。わたしはそういう文脈の中で生きているらしい。